2012年7月11日水曜日

ベルリン国立美術館展

ベルリン国立美術館展、先の金曜日の夕方、上野の国立西洋美術館にて。

あれこれ考えずに、とりあえず、早いうちに当日の印象をそのままメモをしておこう。

最初の部屋は15世紀の木彫が主だった。大理石や石灰岩、テラコッタ、うわぐすりのかかった彩色彫刻なども数点あったが、木彫は殆どがドイツと、イタリア以外で以北の北の国々の作品だったのに対し、それ以外はだいたいがイタリアの作品であったことを興味深く思った。

その木彫の材質が気になって一つ一つ確認したが、殆どが菩提樹であった。灰色でち密。確かに木彫に向いているのだろう。一つだったかクルミの木で掘られたのがあり、明るい茶色でやや華やかな色である。ただ一つ、特別に細密な彫刻があったが、これはツゲ材であった。あちらにもツゲはあるのだなと思った次第。

この種のドイツを中心とした(と思う)木彫をまとめて見るのは二回目である。一回目はこの同じ国立西洋美術館で開催された「聖なるかたち」展で、その時に珍しくも購入してあったカタログを見直してみると、1994年である。あれからもう18年・・・

当時に比べても確実に視力は低下している。近距離用の眼鏡を持って来ればよかったのだが、持ち合わせなかった。仕方なく眼鏡を外して眼を近づけて見る。多くは眼鏡を外して見られるほどには近づけないが、サイズの小さな作品が多いこともあって中にはガラス越しではあっても20センチよりも近よれるものもあった。裸眼ではっきり見えるまで近づくと、さすがに生々しいまでに表情がよく見える。多くは美男美女ではない、いわゆる味のある表情である。

ともかく日本の神像なども含めて中世の木彫には惹かれるものがある。今回、本筋とはあまり関係がないが、殆どが菩提樹の木材で彫られていることがわかった事は、個人的に一つの収穫だった。なぜか菩提樹材がこういう彫刻に用いられてきたことが喜ばしく思えるのである。


あとはだいたい16世紀以降の絵画と素描で、特定の個人作家に重点が置かれる構成ではなかった。有名作家として、クラナッハ、デューラー、ベラスケス、レンブラント、フェルメールの作品が一、二点ずつで揃えられている。もっとも、有名作品以外の小品や素描では他にもミケランジェロやルーベンスなど、超有名作家の作品もあった。


クラナッハの作品は二点とも小さい。美術館の門の横に巨大な写真が掲げられているルターの肖像の実物も実物は肖像画としては小さい方だろう。上横を向いた顔の角度がピタッと決まっている感じ。

ただ一つのレンブラント作品「ミネルヴァ」も写真複製の印象に比べてずいぶん小さい。しかし遠くから見ても一目で惹きつける強烈さがある。暗い背景と光のあてられたミネルヴァとの強烈なコントラストは本当に油絵でしか出せないものだと感心してしまった。


素描を主とした部屋では素描に用いられた各種の画材が展示されていた。中国や日本では事実上墨と筆だけであったのに比べると興味深い。西洋のこの時期、中世以降から近代にいたるまで長期にわたって飽くことなき写実の追及が続けられていたことがわかる。いささか息苦しくもある。


疲れたが、欲を出して常設展もひと通り、(彫刻はスルーしたが)見た。ここの常設展は二度程見たことがある。印象派が沢山という印象が強かったが、今回のベルリン国立美術館展に合わせてかどうか、中世や近代以前の作品で初めて見たといえる作品が意外と沢山展示されていた。中にはいくつかの新収作品もある。いずれもベルリン国立美術館展の展示とは異なり、ガラスをかけず、照明も明るく、いくらでも近づいて見られるようになっている。スマートフォンで写真を撮っている人がいたが、監視員は無視していたから、写真撮影は誰にもOKになっているのかもしれない。


後からネットで名前を確認したが、新収作品にデンマークのハンマースホイという作家の「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」があった。この作品は比較的最近のテレビ番組で紹介されていたことにすぐ気付いたが、実作を見ると確かに強い印象を与える作品である。


以上、印象列記。







2012年6月18日月曜日

国立博物館「ボストン美術館 日本美術の至宝」と国立新美術館「セザンヌ」

先月31日に東京国立博物館、「ボストン美術館 日本美術の至宝」に、今月の8日には国立新美術館、「セザンヌ」に行ってきました。

どちらも国立ですが、一方は博物館、一方は新美術館です。同じ国立でもかなり様子が違っています。国立博物館の方は4時頃に行ったのですが、相変わらず5時閉館で、4時過ぎに入館すると、早く見るようにと職員にせきたてられます。他方の新美術館は、金曜には8時閉館です。調べてみるとどちらも独立行政法人で文科省管轄であることも変わらないようですが、博物館の方は「国立文化財機構」、新美術館の方は「国立美術館」で、美術館という名前のすべての国立美術館が所属することがわかりました。


日本では美術館と博物館とが分けられていますが、博物館だからといって国立博物館は科学博物館と同一の組織というわけではなく、国立博物館は国立文化財機構に所属するのに対して科学博物館は単独の独立行政法人であるようです。どうもすっきりしない感じがしますが、言葉の意味やカテゴリーはまあこんなものかも知れないですね。欧米のミュージアムという、広い概念はあった方が良いような感じもしますが、一方、博物館という言葉も悪くないような気もします。


さて、 ボストン美術館日本美術の至宝展は、さすがに素晴らしい見応えのある展覧会でした。明治維新後に見捨てられていた古美術品を評価したフェノロサとか他の欧米人収集家の慧眼が評価されていますが、しかしこういう作品群を見ると彼らがこういう作品に魅了されたのは当然で、なんの不思議もないことのように思われます。

最初に橋本雅邦の比較的新しく傷みもほとんど無いきれいな仏画があり、それに続いて各時代の精緻きわまりない仏画が並んでいましたが、こういうきれいな仏画はこれまであまり見る機会が無かったような気がします。

吉備大臣入唐絵巻と平治物語絵巻は、どちらも写真でなじみ深いものですが、やはり本物の迫力は、―大きさではなく、実物であることの迫力はすごいものがありますね。視力が劣っている上に照明も暗くて満足のゆくようには見えないにも関わらず、これはわかります。最近はデジタルテレビで映像の画質が向上し、結構感動していましたが、やはり絵画と自然についていえば、映像にリアリティーを望むことは無理なこと今更ながら思い知らされました。というよりも、本物を見るたびにいつでも繰り返し思い知らされることのようです。特に平治物語の、おびただしい数の人物が精緻な線で克明に描かれている様子は迫真力が感じられました。

最後に、テレビでも紹介され、解説されていた曽我簫白の雲龍図。個人的には、本物を見る前にはなんだか荒っぽく雑な印象を持っていたのですが、本物を見ると少しも雑ではなく、細部も緻密できめ細やかなことで印象を新たにさせられました。やはりこれも本物を見て始めてわかることだった、というより私にとってはそうだったということですね。複製でも価値のわかる人はやはりそれだで鑑賞力あるいは想像力が高いということでしょう。


次にセザンヌ展のほうです。

この展覧会では最初の初期、最後の晩年の他、中間は風景、身体、肖像、静物というように題材別に分けて展示していましたが、なるほどセザンヌの場合はこういう区分けが適しているようです。

以下、少し、というよりかなり変ですが、文体を変えます。

このセザンヌ展の初期、風景、身体の各セクション。眺めながらいろいろ考えが頭の中を巡っているようであるし、どの絵も軽い印象はなく、見続けて退屈することもない。しかし考えたといってもそれを言葉にすることは難しい。といって言葉にできないほどの強烈な印象を受けたというわけでもなく、ただ言葉が出てこないだけのようだ。言葉にできるほどには、前提となる知識、鑑識眼、あるいは鑑賞力がないということか。

肖像画のコーナーではセザンヌ夫人、画商、少年、農夫、庭師の肖像、それぞれ堂々とした各種人物の肖像が展示されている。興味深いのはルノワールのような可愛い少女の肖像がないことだ。日本風にいえば美人画が欠落している。単にモデルの問題かも知れないが、セザンヌらしいといえば言える。ただあらゆる対象を網羅するという精神とはあまり関係がないようである。

こういった、年齢とか階層とか職業とか、教養とかの違い、または個人の個性の違いによる表情の表現とか表現力といったものはよく話題になることだが、この日考えたこと、というのは、絵になる以前の各人の表情そのもの、人間の表情そのもののもつ含蓄、不思議さ、神秘性を感じた次第である。こういうことはクレーが追求していたことかも知れない。

本展の圧巻はやはり晩年の「サント=ヴィクトワール山」と「りんごとオレンジ」ということになるのだろう。今回、個人的には「りんごとオレンジ」の方がより圧巻であると感じた。見続けることで得られる充実感、充足感はやはり圧倒的な印象である。赤とオレンジ色から得られる色の満足感も同様。

見終わった後、新美術館の門前から対岸を眺める。六本木のあたりも土地の起伏が激しい。



日本ガラス工芸協会展「ガラスの波紋」とガラス個展「寺沢彰紘硝子展」

つい先日、かなりの短期間に国立博物館と国立新美術館に行きましたが、まずその前に今回は先月に訪れたガラス展二つの記憶をとどめておこうと思います。



先月、5月の8日の日曜日に訪れたガラス展「ガラスの波紋」も、始めて訪れてから、もう数回目になります。旧知の作家以外の作家についても名前と作品の傾向にはいつしか馴染んできて年ごとの変化にも多少は気づくようになってきました。

全般的に言えることですぐに気づくことは、年を追うごとに作品が小振りになってきていることです。しかし、それが産出力や意欲の低下とかを意味するのではなく、本来の大きさ、あるべき大きさに落ち着いてきたのではないかと、筆者には思われます。言ってみれば形式と内容との一致度が高まってきているのでは? 平たく言って成熟して落ち着いてきているというのでは?という印象があります。

もともとガラス工芸にはあまり大きなものは似つかわしくはない面もあるのでは、とも思えます。特に精緻な加工を施す作品にとってはそれが言えるような。もちろんこれはそう画一的にとらえるべき問題ではないと思いますが。

そんなわけで、この展覧会も年々親しみやすいものになってきているような気がします。今流行の「かわいい」傾向の作品群も多くなってきているような感じもありますね。

「かわいい」とは何か、美学的にどういう意味を持つのか、というのは今ここで実に興味深い問題にも思えてきたましたが、今急にそんな詮索を始めてもどうにもなりません。理屈抜きで、今ここにある作品群はかわいいと同時に美しいし、かわいくはなく美しい作品、かわいさとは別の美しさを持つ作品と同様に価値があるし、個人的にもそういう可愛く楽しい作品は好きです。

今回、こういった各種の作品群を見て感じたことのつは、理屈抜きで、自分もこういうものを作りたいな、こういうものを作って生活できれば幸せだろうな、という実に単純素朴な感慨でした。現実に私は過去にもそう考え、ガラス工芸の学校に入った次第ですから。結果的にそうならなかったのにはもちろん自他それなりの理由があり、今からまた始めることにはならないでしょうが、それにも関わらず、そういうあこがれの気持ちは消えることは無いのですね。

(付記。今回、出展者の広沢さんと後藤さんにお会いすることができ、顧客にはならなかったにもかかわらず、同じガラス工芸学校に居合わせたよしみで、いろいろ有益なお話を伺うことができました。お二方ありがとうございました。)

ちなみに、後藤さんの作品はこの「硝子の波紋」展としては今回初めて拝見させていただきました。今回の全般的な傾向と同様に小振りでありますが、色を一切使っていない点で傾向として少数派であり、先に述べた「かわいさ」の要素は少ない作品群です。お話によるとドイツ製の無色板ガラスを材料にして軟化させて作成した一輪挿しに使えそうな造形作品ですが、用途、あるいは器としての形式を用いることは重視していないそうで、基本的に純粋造形作品、あるいはオブジェであるとのことです。

このドイツ製無色板ガラスは日本で普通に見られる板ガラスよりは遙かに着色が少ないようですが、純粋無垢で表面もなめらかなクリスタルガラスではなく、無色とは言ってもごくわずかに不純物、おそらく鉄に由来するごく薄いくすんだ緑色がついています。確かに、純度の高い完全無色透明のクリスタルガラスでは、純粋造形にも向いていないことはわかります。

確かに彫刻でも真っ白な石膏彫刻ではそのまま作品にはなりにくい。石、木、ブロンズ、と、素材の味わいが欠かせません。陶磁器その他、あらゆる工芸は、一定の天然の要素を残した材料を用いています。完全無色透明なクリスタルガラスを用いて後から色やテクスチャーを加えるガラス工芸はその点でユニーク、異色ともいわれますが、ガラスでも純粋造形作品あるいはオブジェを目指す場合にはやはりそれなりに適した産地といえるものがあることがわかるように思います。陶磁器の原料などに比べると遙かに純度が高く、産地との関係は少ないとはいえ、やはり産地との関わりが無視できないということが面白いですね。もちろん技術面での土地とのつながりもあります。


翌日の9日はこれも例年の寺澤さんの硝子展です。



こちらはガラス展ではなく硝子展です。
実際に使える器が主体となっている点は以前のとおりで、ガラス工芸協会などの主流とは多少離れていますが、このように実際に使える器は、陶磁器では依然として主流であるようですがこれはガラスと陶磁器の重要な違いと言えるように思います。

寺澤さんの行き方は陶磁器的感覚に近いと言えると言えますが、もちろんランプシェードのような陶磁器では作りにくいようなものもあります。最近はオブジェとは言わずオーナメントにも守備範囲を広げてこられたようです。

下の写真はちょうど筆者の今のニーズにぴったりだったので買い求めたペーパーウェイトです。この完全透明なクリスタルガラス中に浮かぶ青い色の破片は普通の室内、特に机の周辺ではあまり見ることのできない異質な色調で、ちょうどLED電球のスタンドで照らし出すと室内で青空を垣間見るような印象です。蛍光灯下ではこの青さは得られません。試してみましたが、直射日光で見る色調や昼間の散乱光で見る色調とも少し異なります。

このペーパーウェイトの青をきっかけにLED電球や蛍光灯の光についていろいろと考えさせられることがありました。いずれにせよ仕事机にこういう色調があるのは精神衛生に好ましいような気がします。ただし少なくとも筆者の場合、蛍光灯だけではそれほどの効果なしです。


途中で話が別の方向にそれてしまったようですが、そういえば当日も作者とLED電球について話題にしたことを思い出しました。ランプシェードにLED電球を使用することに関してです。ランプシェードといえばどうしても暖かみが求められるようで、作者はまだLEDの色に不満を持たれているようですが、少なくとも蛍光灯に比べて一段とガラス工芸にとって好ましい素材というか、アイテムが登場してきたようです。

2012年3月10日土曜日

ガラスの小盃の写真


しばらく記事を更新していませんでした。ここでちょっと拙い写真でも載せてみることにします。実のところ、今回の記事は別のブログのために書いたものですが、当ブログのカテゴリーにも該当しますので、重複してこちらにも掲載することにしました。主題の小盃(展示されていたタイトルを覚えていればよかったのですが、ワイングラスとも言えないし、大きさから考えてとりあえず小盃としておきます)は前回の記事で取り上げた展示会で買い求めた広沢さんの作品です。ちなみに奥のほうに写っている陶器はやはり本ブログ2010年5月の記事で取り上げた展示会で買い求めたもので、和田忠実さんの作品です。

写真と文字、音楽と工芸




二か月ほどまえ、ちょっとしたついでの折に、携帯のカメラで何枚かの写真を撮った。それというのは、以前購入したガラス工芸作家の小品である小さな盃に白ワインを注いでみたのである。そうすると、うす黄色い透明なワインが注がれると、いかにもぶどうの果実を思わるように見えたのである。といっても普通の赤紫色をしたぶどうの外観色ではなく、皮をとったぶどうの粒か、それともマスカットのような色である。とにかくその器に注いだものをみるとぶどうの粒のような感じがして面白いものだなと思い、ちょっと写真をとってみたのである。しかし器が小さいのでそれひとつを撮るのも寂しいと思って、近くにあったものをとり合わせて何枚かとってみたのだが、撮った結果を見るとその時はどれもつまらない写真にしか見えず、そのままにしておいた。それをつい最近、携帯電話の画面で何気な見てみたところ、結構いいではないか、と思うのが一枚だけあった。それがこの写真である。もちろん自分でちょっといいなと思っただけで、他人が見てもいい写真に見えるとは思っていない。ただ、下にまとめた4枚の写真よりは写真として出来がいいと思ってもらえるのではないかと思う。


なぜこれだけがいいと思ったのか、考えてみると、他の写真と同様にCDケースと組み合わせて撮っているのだが、これだけは実はCDボックスであり、テーブルの上に立てることができたのだった。それでBEETHOVENの文字が上部の正面から右半分を占め、はっきりと読むことができ、写真全体のタイトルであるかのようにさえ見える。少なくとも文字の意味するところのベートーベンという人物のことが直ぐにわかるようになっている。CDボックスの四角い形とあいまって、その時はなにかモニュメントか墓碑のように見えたのかも知れない。そしてワインの盃はお供えのように見立てられたのである。撮るときはそんなことまで考えたことはなかったのだが。

下の、CDが写った写真では、構図的にも収まりが悪いが、ただありあわせのCDをなんとなく、特に意味もなく組み合わせただけという感じで、大した意味が感じられない。

やはり写真も、より具体的な意味が読み取れることでこそ、美しく見えるのだということに改めて気付かされたような気持ちである。とくに文字が映される場合、文字の意味がやはり重要な意味を持つのだなということである。文字の意味といってももちろん受取り手によって様々である。これがベートーベンとは気づかれない場合もあるだろう。しかしその場合でも、その位置と大きさ、書体などから何らかの重みのある意味を感ぜられるということはあると思う。

奥のほうに写っている陶器はどのように見られるだろうか。これは実は急須であって、機能的な意味ではあまり前の盃ともCDボックスとも関係がなく、偶然に写ったように見えるかも知れない。実際、取るときは本当によく考えもせず、構図に入れただけである。第一これは急須で合って、機能的にはワインともベートーベンとも、まったく別世界のものである。ただここでは急須には見えず、ただ陶器であることだけは誰にも見て取れると思われる。ただし一応は意識的に入れたように記憶している。ただ構図上、何かなければ寂しいと思ったのかも知れない。それにしても普通には、意味が感じられないと思われる。

ところが、後から気がついたのだが、これも意味的に、CDボックスに関連付けることができるのである。ただ、それは殆ど100パーセント、私個人による勝手な意味づけに終わるようなものである。しかし、説明を加えれば多少は分かってもらえる可能性のあるような意味づけであると言える。というのは、

BEETHOVENの下の行にやや小さい文字で、「ピアノフォルテのためのソナタ集」とフランス語で書かれている。その下にさらに小さい文字で書かれているのは古楽器による演奏という意味だろう。これは日本では「フォルテピアノ」と呼ばれるところの、ベートーベン時代の複数の古楽器によるベートーベンのピアノソナタ全集(演奏はパウル・バドゥラ=スコダ)だからである。

最近はCDといえば中古しか買わず、ボックス入りの全集などもまったく買うこともないのだが、最近はフォルテピアノの音色に魅せられているところがあって、かなり高価なボックスを購入してしまったのであった。なぜか、もちろん四六時中ではないにしてもピアノの音色に対する興味が頭から離れないのである。音楽のプロでも、アマチュアでもなく、楽器としてのピアノに関わりがあるわけでもなく、音楽の鑑賞者としてもマニアックには程遠いのだけれども、そうなのである。これについては1月6日の記事に書いている。

そのフォルテピアノの音色は陶器に例えられると思ったのである。現代ピアノの音を磁器に例え、それに対してフォルテピアノの音を陶器に例えるのがふさわしい、フォルテピアノの音色をうまく表現できるのではと思っていたのである。もっとも陶器の持つ土の感触はピアノの音色に比較するにはちょっと違和感があるかも知れないが、磁器を現代ピアノに比し、対にして考えれば結構当を得ているのではと思う。こんなことを考えていた事が無意識的に働いて、写真をとるときにこの陶器を配置したのかも知れない。

テーブルの材質が木目印刷の合成樹脂で味わいの乏しいのが大きなマイナス点。構図的にもおそらくイマイチだろうと思う。同じ構図で何枚も取っていれば多少はもう少し良いのが撮れたかも知れない。