2012年6月18日月曜日

国立博物館「ボストン美術館 日本美術の至宝」と国立新美術館「セザンヌ」

先月31日に東京国立博物館、「ボストン美術館 日本美術の至宝」に、今月の8日には国立新美術館、「セザンヌ」に行ってきました。

どちらも国立ですが、一方は博物館、一方は新美術館です。同じ国立でもかなり様子が違っています。国立博物館の方は4時頃に行ったのですが、相変わらず5時閉館で、4時過ぎに入館すると、早く見るようにと職員にせきたてられます。他方の新美術館は、金曜には8時閉館です。調べてみるとどちらも独立行政法人で文科省管轄であることも変わらないようですが、博物館の方は「国立文化財機構」、新美術館の方は「国立美術館」で、美術館という名前のすべての国立美術館が所属することがわかりました。


日本では美術館と博物館とが分けられていますが、博物館だからといって国立博物館は科学博物館と同一の組織というわけではなく、国立博物館は国立文化財機構に所属するのに対して科学博物館は単独の独立行政法人であるようです。どうもすっきりしない感じがしますが、言葉の意味やカテゴリーはまあこんなものかも知れないですね。欧米のミュージアムという、広い概念はあった方が良いような感じもしますが、一方、博物館という言葉も悪くないような気もします。


さて、 ボストン美術館日本美術の至宝展は、さすがに素晴らしい見応えのある展覧会でした。明治維新後に見捨てられていた古美術品を評価したフェノロサとか他の欧米人収集家の慧眼が評価されていますが、しかしこういう作品群を見ると彼らがこういう作品に魅了されたのは当然で、なんの不思議もないことのように思われます。

最初に橋本雅邦の比較的新しく傷みもほとんど無いきれいな仏画があり、それに続いて各時代の精緻きわまりない仏画が並んでいましたが、こういうきれいな仏画はこれまであまり見る機会が無かったような気がします。

吉備大臣入唐絵巻と平治物語絵巻は、どちらも写真でなじみ深いものですが、やはり本物の迫力は、―大きさではなく、実物であることの迫力はすごいものがありますね。視力が劣っている上に照明も暗くて満足のゆくようには見えないにも関わらず、これはわかります。最近はデジタルテレビで映像の画質が向上し、結構感動していましたが、やはり絵画と自然についていえば、映像にリアリティーを望むことは無理なこと今更ながら思い知らされました。というよりも、本物を見るたびにいつでも繰り返し思い知らされることのようです。特に平治物語の、おびただしい数の人物が精緻な線で克明に描かれている様子は迫真力が感じられました。

最後に、テレビでも紹介され、解説されていた曽我簫白の雲龍図。個人的には、本物を見る前にはなんだか荒っぽく雑な印象を持っていたのですが、本物を見ると少しも雑ではなく、細部も緻密できめ細やかなことで印象を新たにさせられました。やはりこれも本物を見て始めてわかることだった、というより私にとってはそうだったということですね。複製でも価値のわかる人はやはりそれだで鑑賞力あるいは想像力が高いということでしょう。


次にセザンヌ展のほうです。

この展覧会では最初の初期、最後の晩年の他、中間は風景、身体、肖像、静物というように題材別に分けて展示していましたが、なるほどセザンヌの場合はこういう区分けが適しているようです。

以下、少し、というよりかなり変ですが、文体を変えます。

このセザンヌ展の初期、風景、身体の各セクション。眺めながらいろいろ考えが頭の中を巡っているようであるし、どの絵も軽い印象はなく、見続けて退屈することもない。しかし考えたといってもそれを言葉にすることは難しい。といって言葉にできないほどの強烈な印象を受けたというわけでもなく、ただ言葉が出てこないだけのようだ。言葉にできるほどには、前提となる知識、鑑識眼、あるいは鑑賞力がないということか。

肖像画のコーナーではセザンヌ夫人、画商、少年、農夫、庭師の肖像、それぞれ堂々とした各種人物の肖像が展示されている。興味深いのはルノワールのような可愛い少女の肖像がないことだ。日本風にいえば美人画が欠落している。単にモデルの問題かも知れないが、セザンヌらしいといえば言える。ただあらゆる対象を網羅するという精神とはあまり関係がないようである。

こういった、年齢とか階層とか職業とか、教養とかの違い、または個人の個性の違いによる表情の表現とか表現力といったものはよく話題になることだが、この日考えたこと、というのは、絵になる以前の各人の表情そのもの、人間の表情そのもののもつ含蓄、不思議さ、神秘性を感じた次第である。こういうことはクレーが追求していたことかも知れない。

本展の圧巻はやはり晩年の「サント=ヴィクトワール山」と「りんごとオレンジ」ということになるのだろう。今回、個人的には「りんごとオレンジ」の方がより圧巻であると感じた。見続けることで得られる充実感、充足感はやはり圧倒的な印象である。赤とオレンジ色から得られる色の満足感も同様。

見終わった後、新美術館の門前から対岸を眺める。六本木のあたりも土地の起伏が激しい。



日本ガラス工芸協会展「ガラスの波紋」とガラス個展「寺沢彰紘硝子展」

つい先日、かなりの短期間に国立博物館と国立新美術館に行きましたが、まずその前に今回は先月に訪れたガラス展二つの記憶をとどめておこうと思います。



先月、5月の8日の日曜日に訪れたガラス展「ガラスの波紋」も、始めて訪れてから、もう数回目になります。旧知の作家以外の作家についても名前と作品の傾向にはいつしか馴染んできて年ごとの変化にも多少は気づくようになってきました。

全般的に言えることですぐに気づくことは、年を追うごとに作品が小振りになってきていることです。しかし、それが産出力や意欲の低下とかを意味するのではなく、本来の大きさ、あるべき大きさに落ち着いてきたのではないかと、筆者には思われます。言ってみれば形式と内容との一致度が高まってきているのでは? 平たく言って成熟して落ち着いてきているというのでは?という印象があります。

もともとガラス工芸にはあまり大きなものは似つかわしくはない面もあるのでは、とも思えます。特に精緻な加工を施す作品にとってはそれが言えるような。もちろんこれはそう画一的にとらえるべき問題ではないと思いますが。

そんなわけで、この展覧会も年々親しみやすいものになってきているような気がします。今流行の「かわいい」傾向の作品群も多くなってきているような感じもありますね。

「かわいい」とは何か、美学的にどういう意味を持つのか、というのは今ここで実に興味深い問題にも思えてきたましたが、今急にそんな詮索を始めてもどうにもなりません。理屈抜きで、今ここにある作品群はかわいいと同時に美しいし、かわいくはなく美しい作品、かわいさとは別の美しさを持つ作品と同様に価値があるし、個人的にもそういう可愛く楽しい作品は好きです。

今回、こういった各種の作品群を見て感じたことのつは、理屈抜きで、自分もこういうものを作りたいな、こういうものを作って生活できれば幸せだろうな、という実に単純素朴な感慨でした。現実に私は過去にもそう考え、ガラス工芸の学校に入った次第ですから。結果的にそうならなかったのにはもちろん自他それなりの理由があり、今からまた始めることにはならないでしょうが、それにも関わらず、そういうあこがれの気持ちは消えることは無いのですね。

(付記。今回、出展者の広沢さんと後藤さんにお会いすることができ、顧客にはならなかったにもかかわらず、同じガラス工芸学校に居合わせたよしみで、いろいろ有益なお話を伺うことができました。お二方ありがとうございました。)

ちなみに、後藤さんの作品はこの「硝子の波紋」展としては今回初めて拝見させていただきました。今回の全般的な傾向と同様に小振りでありますが、色を一切使っていない点で傾向として少数派であり、先に述べた「かわいさ」の要素は少ない作品群です。お話によるとドイツ製の無色板ガラスを材料にして軟化させて作成した一輪挿しに使えそうな造形作品ですが、用途、あるいは器としての形式を用いることは重視していないそうで、基本的に純粋造形作品、あるいはオブジェであるとのことです。

このドイツ製無色板ガラスは日本で普通に見られる板ガラスよりは遙かに着色が少ないようですが、純粋無垢で表面もなめらかなクリスタルガラスではなく、無色とは言ってもごくわずかに不純物、おそらく鉄に由来するごく薄いくすんだ緑色がついています。確かに、純度の高い完全無色透明のクリスタルガラスでは、純粋造形にも向いていないことはわかります。

確かに彫刻でも真っ白な石膏彫刻ではそのまま作品にはなりにくい。石、木、ブロンズ、と、素材の味わいが欠かせません。陶磁器その他、あらゆる工芸は、一定の天然の要素を残した材料を用いています。完全無色透明なクリスタルガラスを用いて後から色やテクスチャーを加えるガラス工芸はその点でユニーク、異色ともいわれますが、ガラスでも純粋造形作品あるいはオブジェを目指す場合にはやはりそれなりに適した産地といえるものがあることがわかるように思います。陶磁器の原料などに比べると遙かに純度が高く、産地との関係は少ないとはいえ、やはり産地との関わりが無視できないということが面白いですね。もちろん技術面での土地とのつながりもあります。


翌日の9日はこれも例年の寺澤さんの硝子展です。



こちらはガラス展ではなく硝子展です。
実際に使える器が主体となっている点は以前のとおりで、ガラス工芸協会などの主流とは多少離れていますが、このように実際に使える器は、陶磁器では依然として主流であるようですがこれはガラスと陶磁器の重要な違いと言えるように思います。

寺澤さんの行き方は陶磁器的感覚に近いと言えると言えますが、もちろんランプシェードのような陶磁器では作りにくいようなものもあります。最近はオブジェとは言わずオーナメントにも守備範囲を広げてこられたようです。

下の写真はちょうど筆者の今のニーズにぴったりだったので買い求めたペーパーウェイトです。この完全透明なクリスタルガラス中に浮かぶ青い色の破片は普通の室内、特に机の周辺ではあまり見ることのできない異質な色調で、ちょうどLED電球のスタンドで照らし出すと室内で青空を垣間見るような印象です。蛍光灯下ではこの青さは得られません。試してみましたが、直射日光で見る色調や昼間の散乱光で見る色調とも少し異なります。

このペーパーウェイトの青をきっかけにLED電球や蛍光灯の光についていろいろと考えさせられることがありました。いずれにせよ仕事机にこういう色調があるのは精神衛生に好ましいような気がします。ただし少なくとも筆者の場合、蛍光灯だけではそれほどの効果なしです。


途中で話が別の方向にそれてしまったようですが、そういえば当日も作者とLED電球について話題にしたことを思い出しました。ランプシェードにLED電球を使用することに関してです。ランプシェードといえばどうしても暖かみが求められるようで、作者はまだLEDの色に不満を持たれているようですが、少なくとも蛍光灯に比べて一段とガラス工芸にとって好ましい素材というか、アイテムが登場してきたようです。