2011年12月20日火曜日

住宅街のアートギャラリー訪問



(写真の左側が10月の本展の案内状、右は、行けませんでしたがその後12月に大森で開催された「広沢葉子・和田忠実 二人展」の案内状です。実にエネルギッシュに活動されているようすがわかります。)

もう先々月になってしまいましたが、『千石にて、玻璃と鉄、邂逅す。― 「小林秀幹」金工展 「広沢葉子」ガラス展』に行って来ました。


このギャラリーは始めてですが歩いて行ける距離にあります。とは言っても二駅ほどはありますが、いつもよく歩く程度の距離です。初めての場所ですが、表通りは一度通ったことがあります。この辺り、表通りはオフィス、事業所とマンションが共存しているといった形ですが、一歩裏に入ると閑静な住宅街で、道路も複雑です。さらに東京はどこでもそうですが、土地に起伏があるのでちょっとまごつきましたが、比較的簡単に場所はわかりました。今はグーグルマップのストリートビューを見ると場所によっては建物の写真まで見ることができるので、それも役に立ちました。ただ土地の起伏はマップでは分かりづらいですね。

このギャラリー、K-HOUSE はそんな場所で、入口は屋外にあるコンクリートの階段を登ってさらに奥まった個所にドアがあり、いかにも住宅街の真ん中にあるという雰囲気です。中は非常に凝った造りで、特に広いわけではありませんが吹き抜けの二階もあり、こういった工芸アート作品を展示するのに相応しい、ギャラリーらしい雰囲気です。ただ照明が少し暗い感じがしました。たしかに部屋全体が明るすぎると平板になるので調整は難しいところですが。

今回は金属工芸とガラス工芸のダブル展示でした。こういうダブル展示の場合、普段はあまり行かないようなジャンルの作品群に触れることが可能になるので、見る側から見ても結構視野が広がったり新しい発見の機会が得られるのではないかと思います。

表題どおり「玻璃と鉄の邂逅」ということですが、実際には鉄だけではなく銀や銅も使われていたような印象を記憶しています。悪い癖で、案内状なども写真はよく見るのですが、あまり文面はあまり気をつけて見ない事が多く、後から改めて見直すとそうだったのか、と思う事がよくあります。今回もあとで見て改めて鉄が主役だったのかと、気づいた次第です。確かに鉄の強度がなければできないような造形作品もありました。鉄の強度があって始めて形が維持できるような形態。それは確かに鉄の表現力と言えるものでしょう。ただ器のような基本的な形態の作品は鉄や銀や銅を含めて「金属」と一括して良いようにも思います。たた、展覧会を訪問してからかなり時がたってしまい、もう確認することもできないのですが、記憶に残っている器の作品は銀であったような印象で記憶しています。しかし上の写真の2作品はまごうかたなく鉄ですね。表面の加工と仕上げに違いがありますが。その横の広沢さんのガラス作品に金箔または銀箔が使われているため、直ぐ横の表面に金などが使われた鉄作品と繋がっているようです。

金属、なかでも鉄とガラスを併用する工芸作品は昔からあったように思いますが、それ以上の広がりや展開はあまり起こらないようです。やはり一人で両方をするのは難しいのでしょう。

前述のように案内状の文面をよく見ていなかったため、これも後から気づいたのですが、お二人のギャラリートークがあったようです。恐らく興味深いお話が聞けたことと思います。

今回のダブル展示は、ガラスと鉄でしたが、行けなかった12月の大森での広沢葉子・和田忠実 二人展は、ガラスと陶磁器です(トップの写真右側)。こちらはまた違った面でのガラスと陶器の対比とでも言えるように思います。

陶磁器とガラスの相違点、共通項、あるいは相互的な影響など、新しい発見が得られるかも知れないですね。

葉書の写真で眼をひくのは鮮やかな黄色の器です。クリスタルガラスでこのような黄色は非常に珍しいものです。形もどことなく、日本の伝統陶磁器風な感じがします。後ろの3つの作品の色調も陶磁器風な印象があります。

一方、下の写真の急須(土瓶?)は非常に印象的な形ですね。果実のへたのような蓋もそうですが、とっての形など、ガラスではできない手作業が感じられて味わい深いものがあります。


以上、他にも色々と感じたことや考えたことなど、ありますが、そのうちまた、機会を見つけて書き留めておきたいと思います。

2011年9月4日日曜日

没後100年青木繁展 ― 青木繁と日本人の油絵



この9月1日、今開催中の「没後100年青木繁展」を見にブリジストン美術館を訪れた。この美術館を訪れたのは二度目である。最初に行ったのは数年前で比較的最近である。東京に移り住んでからはいつでも行けるような場所にあることは最初から知っていたが、何故か数年前になるまで行ったことがなかった。数年前に始めて行ったきっかけは、常設展示しているというセザンヌの有名な絵を見てみたくなったからだった。件のセザンヌやピカソを含めて有名な絵が沢山あるので満足だったが、その時に最も驚き、感動したのはクレーの大作であった。目の高さにガラスもかけずに展示してあり、館内は閑散として他に誰もおらず、触ろうと思えば触れるほどであった。もちろん触らなかったが、触りたくなるような材質でもあった(油彩と砂を混ぜた石膏)。いまネットで調べてみると「鳥」というタイトルのようだ。その時は殆ど至近距離で細部を見る時間が多かったせいか、全体の姿は覚えていなかった。ネットで見る小さな画像で全体の姿は分かるが、しかし実物を間近で見たときの豊かな印象は全く得られない。間近で細部を見ていると本当に言葉に表現できない味わいが何時までも無限に、沸き起こるというか、引き込まれるというか、とにかく尽きることのない豊かな味わいがあるのである。という次第で、私にとってブリジストン美術館はこの絵と分かちがたく結びついていた。しかし誰であってもこの美術館の所蔵品を見に行く人は絶対にこの絵を見るべきであると思う。

このブリジストン美術館で今回の特別展が開催されたわけだが、青木繁の代表作の幾つかがこの美術館の所蔵品であることも今回初めて知った。もしかしたら前回訪れたときに展示されていたかもしれないが記憶にはなかった。しかし何れも、すなわち「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」も有名な絵であって昔から中学校の美術史の教科書にも出ていたくらいであるから、どのような絵であるかくらいはもちろん知っていた。

実は、私は日本人の大家の描いた油絵というのは概してあまり好きではなかった。それらの中で、写真で知っていた青木繁の絵は、確かに他の大家の油絵とは少々違った印象があり、今回、この没後100青木繁展がテレビの日曜美術館で紹介されたのを見た事がきっかけで見に行ったのである。ネットで調べてみると終了日間近で「ただいま混み合っております」とのことで空いていると思われる平日の朝一番に見に行った。

大体見終わって ― といのはまだ最後の部屋があるのに気づかず、細長い部屋に長い机と椅子が並び、電気スタンドも使用して今回展のカタログを自由にみられる場所があって、そこでカタログをひと通りめくらせてもらったこともあり ― 思ったことは、西洋の印象派やそれ以前あるいは以後の画家の個人展を見終わった時の印象とそう変わらなかったという感慨である。何か日本の明治期の油絵特有の印象ではあまりなかった。もちろん明治を感じさせる要素自体は色いろある。特に毛筆書簡やその他の関連出品を見るとそうだ。中でも藤村の若菜集の初版本など、非常に保存の良い物が出品されていて、実に感慨深かった。

ところが最後の部屋がまだ残っていたのである。カタログに載っていた幾つかの絵をまだ見ていないことに気がついていたが、最後の部屋にそれらがあった。主として最晩年の、九州に帰ってから描かれた作品群である。ここの作品群を見た印象は、それまでと違い、ああ、やはり明治の日本人の描いた油絵だなという印象だった。端的に言ってそれは肖像画が多かったせいもある。紛れもなく明治の一般人をいわゆる肖像目的で描いた絵である。はっきり言って幾つもあった自画像と比べてつまらない。しかしそのような印象は風景画でもあった。海の絵でも、それ以前の絵は印象派の画家の油絵を見ている印象とそう変わらなかったのが、ここでははっきり明治の日本人の画家の絵という感じがした。

帰宅してからは、幾つかの名作を見た印象を思い起こし、あれこれ考えたのだが、まず、名作「わだつみのいろこの宮」を見ていた時の印象を言えば、全体の構図や色調、雰囲気、背景描写などは確かに見事で素晴らしいと思ったが、ひとつ不満があった。それは最も目立つ位置にある豊玉姫の顔立ちがあまり魅力的に思えなかったのである。最初この作品が不評だったのはこの辺にも理由があったのではないかと思われた。というのはこの、日本神話のお姫様の顔立ちが日本人離れしているのである。着ているものもむしろ洋服に近い。個人的に、西洋風の顔立ちの女性が好きではないとか魅力がないとかは全く思わないが、この絵の場合、適切な日本人のモデルが得られなかったので、西洋の画家の絵がモデルに取り入れられているような感じがする。もっと具体的に言えば、テレビ番組の解説にもあったように、イギリスのラファエル前派の絵である。というわけで、西洋風であるから魅力が乏しいというわけではなく、現実の女性がモデルになっていないためにインパクトと魅力に乏しい顔立ちになっているのではないかと思った次第である。しかし、顔立ちが西洋風である事も、日本神話を題材にした絵として、違和感をもたらしているとも言えないことはない。特に山幸彦の顔立ちは十分に日本人らしい顔立ちである。山幸彦の顔立ちと並べて違和感があることは否めないと思う。ただ、ここで山幸彦は裸で描かれている。もしここに普通、日本神話の神々としてよく描かれるような服装をしていたら、もっと違和感が大きくなっていたのではないかと思われた。また逆に別の意味で裸は違和感があるはずである。そこが神話という題材の自由さで、これは本家のヨーロッパの神々の絵をみれば明らかなことである。そう見ると、この違和感は、あるいは意図的なものかもしれない。また絵全体として、特に西洋的な油彩画としてこのような顔立ちや服装が調和しているのも事実である。何れにしても、発表当時の不人気の理由にそういうところかあったのではないだろうかと思う。個人的にもそのあたりに不満を持ったのは確かである。

ここで次ような推察ができるように思われる。作者青木繁が、神話を題材に選んだ理由のひとつに日本の着物姿を描きたくなかったということがあるのではないか、と思われるのである。日本の着物姿というのはすでに数多の日本画に描かれていることもあって、油絵に馴染まない場合が多いことは、多くの人が気付くところではないだろうか。単に着物の問題で終わってしまうとあまりにもつまらないが。ここから色々な問題に発展させられる余地は十分にあると思う。

作者が神話に目を着けたのはもちろん伝統的な日本の着物を描きたくなかったということだけではあり得ない。何れにせよ、日本人にとっての油絵や西洋画の技法の意味するところのものがなんであったのかを考える上で、確かにこの作家はこれからも多方面からの「研究」に値する作家に違いないと思われる。個人的にも今回、考えて書きたいと思ったことはむしろここからなのだが、今は時間がないので、今回考えた幾つかの断片をまとめるだけの時間もない。もっとも、時間がないということは能力がないということかもしれない。

以上、最近幾つかのブログのどれも更新していないので、比較的書きやすいテーマのこのブログを予め決めた時間枠でとりあえずまとめた次第。

2011年6月1日水曜日

「ガラスの波紋」― 日本ガラス工芸協会展 ― 小田急百貨店創業50周年






つづいて小田急百貨店で開かれた2011年日本ガラス工芸協会の展示会「ガラスの波紋」に行ってきました。昨年に和光で開催された同協会の展示会にも行きましたので、写真が残っていたこともあり、ある程度昨年の様子を思い出しました。そこで今回は昨年との比較を含めて少々印象をまとめてみたいと思います。



写真の印象でも分かるように思いますが、今年は前回に比べて全体に小振りでした。平均してかなり小さくなっているように思われます。しかし充実感は変わらず、というより、むしろ今回の方が充実感が高い印象でした。また端正で落ち着いた作品が多かったように思います。技術とデザインにはちょうど適した大きさを見出してきたような気もします。

(カットグラス)
昨年には巨大なカットグラス作品があって少々驚きました。それも深い彫りで、何か水晶の巨大結晶のような印象でした。大変な技術だと思いましたが、ガラスの器としてはちょっと違和感を感じたのを記憶しています。今回、入口付近で、普通のタンブラー程度の大きさのカットグラスがあり、かなり強い印象を受けました。カットグラスとして違和感のない、落ち着いた端正なデザインでしたが、カットグラスのデザインとしては従来あまり見た事のないようなパターンで、多少日本的な感じもありました。日本的な感じがしたのは丸底で台のない器の形によるのかも知れません。作者は記憶していませんが、経歴によると外国留学も経験された方のようです。

(外国留学)
経歴の紹介をみると、出品作家の多くが外国留学を体験されていることが分かります。やはりガラス工芸には外国留学から得られるものが大きいのかな、という印象を持ちました。ある意味当然かも知れませんが、やはりガラス工芸の本場が西欧であることは変わらないような気がします。個人的に、かつてヨーロッパ文明あるいは文化とガラス工芸が発達したことの関連などについて大いに興味を持っていたものです。故佐藤潤四郎先生の発言や著書でも、ガラス工芸が西欧文明を理解することに繋がるというようなことがよく言われていたと記憶しています。科学、哲学、それに錬金術などの神秘思想などとの関連も興味を今もまだ興味がありますが、最近はあまりガラス工芸や美術との関連で考える事は少なくなりました。自分がもうガラス工芸をする可能性がなくなったせいかもしれませんが。それにしても今はもう、ガラス工芸であまりそういうことにこだわる時代ではないのかも知れません。逆に、いったん海外での経験を経たあとで日本で陶器あるいは磁器の影響を受けているように見える作者もあるような気が。というのは広沢さんの作品にそういう傾向が見られたように思います。他にも留学経験を問わず、陶磁器の影響を受けているように見える作家の方が多いと思いますが、その影響の受け方も結構多面的で、そこにも海外での経験が反映することもあるような感じもします。

(技法の充実)
繰り返しになりますが、全体的にどの作家も比較的小振りでオーソドックスな形の作品の中に各種の技法を密度高く投入し、完璧に仕上げた充実感のある作品群で迫っているように思われました。

2011年5月31日火曜日

吹きガラス寺澤彰紘展2011 5月


今回、案内状に写っている作品群は従来と同傾向ないし延長にあるような作品でしたが、ここに写っていないものでサンドブラストの絵柄をつけた無色透明グラス類が多数出品され、むしろそれらがメインの感じでした。その一つを買い求めましたので、簡単なカメラで撮った写真を掲載してみます。右二つはそれぞれ水とビールを入れた状態でとってみたものです。
      
乾杯したりするには向きませんが、落ち着いて一人か少人数で使うのに向いたデザインですね。クリスタルガラスなので重いですが安定感があって良いです。

日常的に使うことができ、生活の中に溶け込むスタイルは従来どおりですが、もちろん単なる実用ではない豊かさ贅沢さがある。なおかつ古代文字という文化遺産とでも言いますか、そういう普段思いおこことがないようなものにも目を向けられる。その分、さらに心を豊かにしてくれる器です。

2011年5月23日月曜日

行けなかったガラスアート エクシビション

今はもう5月も末になってしまいましたが、3月に開催された東京ガラス工芸研究所創立30周年記念卒業生ガラス作家展の案内状を4期同期生の工藤さんを通じて送って頂きました。ちょうど開催期間中にあの地震があり、開催地の川崎市中原区の川崎市民ミュージアムもかなり揺れたものと思います。後から、地震後もなんとか開催を続けられたとのことを伺いましたが、結局、残念ながら行く機会を逸してしまいました。この案内状のデザインは故佐藤潤四郎先生のデザインからとられた事が分かります。赤と白のバランスの取れた背景にこの独特の線画デザインはやはり美しいですね。

すでに、今日までにこの他2つの展覧会ないし個展を見ていますが、日を改めて印象記を書きとどめておきたいと思います。

2011年5月11日水曜日

「白州正子 神仏、自然への祈り」― 世田谷美術館

(今回からこのブログのタイトルをこのように変えました。つまり「ガラスギャラリー訪問記」であったのを「ミュージアムとガラスギャラリー訪問記」とし、ミュージアムを追加した形です。もともと更新頻度は少なかったのですが、なんだか、ミュージアムのほうがメインになって行きそうです。寂しいと言えば寂しいものがあります。結局の処、ガラス工芸にあまり関わる事ができないままに年を重ねてしまったという事ですね。)


さて、もう一月ほど経ってしまったが、最近まで世田谷美術館で開催されていた「白州正子 神と仏、自然への祈り」という展覧会を見にいった。何か収まりの悪いタイトル。チケットやポスターを見ると「白州正子」という個人名だけが目につき、展覧会のタイトルとしては妙な印象を受る。個人の作品展ではないから、「白州正子展」とするわけにも行かないので仕方がない面もあるが、もっと長たらしくなってもいいので適切な表現はないものだろうか。副題として「白州正子記念展」とでも、いくらでも言い様はあるような気がするが。

さて、この特別展のことはNHKの日曜美術館で紹介されていたことで知ったわけだが、ちょっと行くのを億劫に思っていたところ、どうしても行かねば、という気になったのは「日月山水図屏風」が展示されていることが決定的となった。実をいうこの作品を最初に知ったのは私がまだ二十歳前後であった頃にかなり大部な日本美術全集をそろえた時である。作品名や作者や歴史的いわれなどを記憶していたわけでもないのだが、とにかくこの作品がすぐに好きになり、強く印象に残って忘れずにいた。。その後、京都の国立博物館のショップで屏風に仕立てたこの作品の複製が売られていたのを見た記憶がある。勿論かなり高価で買えなかったが、それ以来、この作品は京都国立博物館の所蔵品であると思っていた。今の住居には件の美術全集はないのでこのことを確かめる事もなかったのだが、今回の展示でこれが金剛寺というお寺の所蔵であることを知ったことも1つの感慨のあるものだった。というのは金剛寺という名のお寺は調べて見ると沢山あるが、この金剛寺は私が若い当時には行こうと思えばいつでも行ける処にあったにも関わらず、その存在を知らなかったことだった。河内長野市にも何度も行ったことがあるし、近くの金剛山や葛城山は遠足やハイキングの常連コースであったのだが、このお寺のことを知らなかったことに少々悔しい思いがした。

とにかくこの作品にお目にかかることができた。勿論、美術全集の写真で記憶に残っていた印象そのままではない。記憶ではやはり美化されているというか、金や銀が使われている色彩的なきらびやかさが印象に残っていたが、実物ではやはり、紙の古びた色調や絵の具の剥落とか、まあ欠陥も目につくのは仕方が無いことだろう。一方、実物であるだけに細部が良く見え、夥しい数の松の木一本一本の曲線や形の優美さが、あらためて感動ものであった。江戸時代以降のパターン化した陳腐な松の形や曲線ではない新鮮さと気品がある。著者がこの絵と宗達を比べて「残念ながら彼にはもうこの屏風からほとばしる気韻と新鮮さはない」と言っているのもこういう事だろうと思う。ここでは宗達の桃山時代と比較しているわけだが。

また、記憶では右双の夏景色だけだったのだが、左双の冬景色もあった。こちらもそういえば記憶にあったような気もするが、何とも言えない。今その画集をあらためて見ると、思い出すかも知れない。
ちなみにこの絵はウィキペディアで見られるが、人工的に色を加えてあるようだ。原画では古びた紙のいろの部分が白色になっている。

この絵を見たくて来たのだが、勿論他の諸々の展示も良かった。特に木彫の神像が沢山あったが、仏像とは異なるこういった神像はやはり、本来の日本人の顔立ちでもあるし、木の感触がそのまま感じられるのでもともと好きである。この種の木彫は中世ヨーロッパの木彫にも共通するものがあるように思う。どうしても以前に国立西洋美術館でみた「聖なるかたち」という展覧会で見たゴシックのマリアや天使や聖人などの木彫を思い出し、比べてしまうのだが、勿論木彫であることと時代の古さ、宗教的な像であることなどを含め、共通点もあれば異なる点もある。専門的な観点で比較して見るのも面白そうだが、いずれにしてもこの種の木彫には心が安まるものがある。



今回の展示ではどの展示品にも、原稿用紙を拡大したデザインの展示板に活字体で著者の文章が載せられていた。展示物も最後に近づいてきた処で、その展示板の文章に視線が導かれたとき、すぐに高野山という言葉と天野という言葉が飛び込んできた。天野という地名は全国どこにでもありそうである。現に先ほどの金剛寺にしても河内長野市天野という土地であり、正しい名称は天野山金剛寺というそうである。しかし高野山に近いところで天野という土地という事は・・・もしかしたら、と思ってさらに読んで見た。後で購入した図録から採録すると、こういう風に書かれていた。「天野大社は、言ってみれば高野山の奥の院に当たるのだ。・・・・この辺りの伝承では丹生都比売は天照大神の妹ワカヒルメで紀州を巡歴した後、この地に住み着いて亡くなった。そこからワカ山、ワカノ浦などの地名も出たというが・・・」という調子で続く文章。さらに天野という土地の美しさを称えるくだりもあり、後から見た図録には「・・・私は天野に隠居したいと思っているくらいである」というフレーズが引用されている。

実はこのとき、この天野という土地は私の母が子供の頃に住んでいた土地に間違いないということに気付いたのである。

というのは、母の生前、「あまの」という夢のような古里の話を何度か聞かされた事があるのだが、ついに一度も連れて行かれることもなく、詳しい話を教えられることもなく終わってしまい、この地名を思い出すことも殆ど無いままに今日に至ってしまったのである。多少詳しいことも話されたかも知れないが、子供の時でもあり、覚えていないのだろう。ただ桃源郷のような、という便利な言葉を使ってもいいかもしれないが、少なくともある種、夢のような土地のイメージだったのである。しかし、それにしてもこのような由緒深く大きな、大社と呼ばれる神社があるという話は一切聞かされた記憶がないというのはどういう事だろうか。話はしたが、話す方も聞く方の私も、神社というものにそれ程関心がなかったので記憶に残らなかったのかも知れない。また、母の父親がキリスト教徒であったた事も関係しているのかも知れない。いずれにせよ、和歌山市や高野山には何度も訪れた事があるにも関わらず、この天野の里と丹生都比売神社という、今では世界遺産にもなっている土地や神社の事は今回の事をきっかけにネットで調べるまで、全く無知だったのである。

後日、図録の他に当然のようにインターネット検索とグーグルマップで調べたが、次のサイトにこの神社への参道の道順と写真が掲載されている。
JR和歌山線の妙寺という駅が出発点になっている。そういえば「みょうじ」という駅から行くのだという事は聞かされていたことを思い出した。

このウェブサイトの写真を見ると確かに、天野大社は壮麗とも言える程の神社であり、天野の里も、間違いなく高原に開けた美しい盆地のようだ。他に幾つもの史跡の紹介と写真もある。高野山にも縁が深い場所柄、こういう話はいくらもあって当然だが、西行の妻と娘がこの地で出家したということなども知るとやはり感慨は深い。少なくとも「西行」という、彼女の著書は買って読もうと思った。

という次第でなぜか自分の故郷を訪ねるような印象になってしまったが、勿論、今回の展示物の範囲は大阪と和歌山だけではない。京都、奈良、滋賀、と近畿地方全域に及んでいるが、特に滋賀県、すなわち近江の仏像について著者(今回の展示の場合、著者というほか無いだろう)の思い入れの深さが強調されていたのが印象にのこっている。確かにこの地域についてはかなり歴史的に重要であるわりには紹介されることが少ないだけに、私にとってもかなり興味深いというか、どことなく気になる、世界である。

展示物の印象については以上。

今回のこの展示は美術展としてはかなり異色である。「白州正子 神仏、自然への祈り」というタイトルの通り、白州正子の、といって良いのかどうか判らないが、神仏、自然への祈りというテーマであって展示物そのものではないという印象がある。この神仏、自然への祈り、というテーマは大きく重いテーマであると同時に今日的なテーマでもある。自然信仰というのは、この展覧会では特に日本人に特有の信仰心として取り上げられているが、日本とは違った形、あるいは問題を含んだ形で世界的な傾向でもある。これに関しては数年前、別のブログの記事 http://d.hatena.ne.jp/quarta/20071203#1196666713 で取り上げたのだけれども西欧の一部で「ポスト・キリスト教」と区分される宗教があり、そこではキリスト教の神がマザー・ネイチャーという女神に入れ替わっているという、米国の分子生物学者の著書がNYタイムズで紹介されていたのである。その後この件でその著書を読むとかそれ以上の詮索をしたわけではないが、気になるテーマであり、今回の、日本における自然宗教との比較という点でも興味深いテーマであると言える。

今回の著者やその周辺に関わる事を含め、この続きは別のブログに引き継いで、機会をみつけては考えたことなどを綴ってゆきたいと思う。たぶんブログ「意味の周辺」になるだろうと思う。