2011年5月23日月曜日

行けなかったガラスアート エクシビション

今はもう5月も末になってしまいましたが、3月に開催された東京ガラス工芸研究所創立30周年記念卒業生ガラス作家展の案内状を4期同期生の工藤さんを通じて送って頂きました。ちょうど開催期間中にあの地震があり、開催地の川崎市中原区の川崎市民ミュージアムもかなり揺れたものと思います。後から、地震後もなんとか開催を続けられたとのことを伺いましたが、結局、残念ながら行く機会を逸してしまいました。この案内状のデザインは故佐藤潤四郎先生のデザインからとられた事が分かります。赤と白のバランスの取れた背景にこの独特の線画デザインはやはり美しいですね。

すでに、今日までにこの他2つの展覧会ないし個展を見ていますが、日を改めて印象記を書きとどめておきたいと思います。

2011年5月11日水曜日

「白州正子 神仏、自然への祈り」― 世田谷美術館

(今回からこのブログのタイトルをこのように変えました。つまり「ガラスギャラリー訪問記」であったのを「ミュージアムとガラスギャラリー訪問記」とし、ミュージアムを追加した形です。もともと更新頻度は少なかったのですが、なんだか、ミュージアムのほうがメインになって行きそうです。寂しいと言えば寂しいものがあります。結局の処、ガラス工芸にあまり関わる事ができないままに年を重ねてしまったという事ですね。)


さて、もう一月ほど経ってしまったが、最近まで世田谷美術館で開催されていた「白州正子 神と仏、自然への祈り」という展覧会を見にいった。何か収まりの悪いタイトル。チケットやポスターを見ると「白州正子」という個人名だけが目につき、展覧会のタイトルとしては妙な印象を受る。個人の作品展ではないから、「白州正子展」とするわけにも行かないので仕方がない面もあるが、もっと長たらしくなってもいいので適切な表現はないものだろうか。副題として「白州正子記念展」とでも、いくらでも言い様はあるような気がするが。

さて、この特別展のことはNHKの日曜美術館で紹介されていたことで知ったわけだが、ちょっと行くのを億劫に思っていたところ、どうしても行かねば、という気になったのは「日月山水図屏風」が展示されていることが決定的となった。実をいうこの作品を最初に知ったのは私がまだ二十歳前後であった頃にかなり大部な日本美術全集をそろえた時である。作品名や作者や歴史的いわれなどを記憶していたわけでもないのだが、とにかくこの作品がすぐに好きになり、強く印象に残って忘れずにいた。。その後、京都の国立博物館のショップで屏風に仕立てたこの作品の複製が売られていたのを見た記憶がある。勿論かなり高価で買えなかったが、それ以来、この作品は京都国立博物館の所蔵品であると思っていた。今の住居には件の美術全集はないのでこのことを確かめる事もなかったのだが、今回の展示でこれが金剛寺というお寺の所蔵であることを知ったことも1つの感慨のあるものだった。というのは金剛寺という名のお寺は調べて見ると沢山あるが、この金剛寺は私が若い当時には行こうと思えばいつでも行ける処にあったにも関わらず、その存在を知らなかったことだった。河内長野市にも何度も行ったことがあるし、近くの金剛山や葛城山は遠足やハイキングの常連コースであったのだが、このお寺のことを知らなかったことに少々悔しい思いがした。

とにかくこの作品にお目にかかることができた。勿論、美術全集の写真で記憶に残っていた印象そのままではない。記憶ではやはり美化されているというか、金や銀が使われている色彩的なきらびやかさが印象に残っていたが、実物ではやはり、紙の古びた色調や絵の具の剥落とか、まあ欠陥も目につくのは仕方が無いことだろう。一方、実物であるだけに細部が良く見え、夥しい数の松の木一本一本の曲線や形の優美さが、あらためて感動ものであった。江戸時代以降のパターン化した陳腐な松の形や曲線ではない新鮮さと気品がある。著者がこの絵と宗達を比べて「残念ながら彼にはもうこの屏風からほとばしる気韻と新鮮さはない」と言っているのもこういう事だろうと思う。ここでは宗達の桃山時代と比較しているわけだが。

また、記憶では右双の夏景色だけだったのだが、左双の冬景色もあった。こちらもそういえば記憶にあったような気もするが、何とも言えない。今その画集をあらためて見ると、思い出すかも知れない。
ちなみにこの絵はウィキペディアで見られるが、人工的に色を加えてあるようだ。原画では古びた紙のいろの部分が白色になっている。

この絵を見たくて来たのだが、勿論他の諸々の展示も良かった。特に木彫の神像が沢山あったが、仏像とは異なるこういった神像はやはり、本来の日本人の顔立ちでもあるし、木の感触がそのまま感じられるのでもともと好きである。この種の木彫は中世ヨーロッパの木彫にも共通するものがあるように思う。どうしても以前に国立西洋美術館でみた「聖なるかたち」という展覧会で見たゴシックのマリアや天使や聖人などの木彫を思い出し、比べてしまうのだが、勿論木彫であることと時代の古さ、宗教的な像であることなどを含め、共通点もあれば異なる点もある。専門的な観点で比較して見るのも面白そうだが、いずれにしてもこの種の木彫には心が安まるものがある。



今回の展示ではどの展示品にも、原稿用紙を拡大したデザインの展示板に活字体で著者の文章が載せられていた。展示物も最後に近づいてきた処で、その展示板の文章に視線が導かれたとき、すぐに高野山という言葉と天野という言葉が飛び込んできた。天野という地名は全国どこにでもありそうである。現に先ほどの金剛寺にしても河内長野市天野という土地であり、正しい名称は天野山金剛寺というそうである。しかし高野山に近いところで天野という土地という事は・・・もしかしたら、と思ってさらに読んで見た。後で購入した図録から採録すると、こういう風に書かれていた。「天野大社は、言ってみれば高野山の奥の院に当たるのだ。・・・・この辺りの伝承では丹生都比売は天照大神の妹ワカヒルメで紀州を巡歴した後、この地に住み着いて亡くなった。そこからワカ山、ワカノ浦などの地名も出たというが・・・」という調子で続く文章。さらに天野という土地の美しさを称えるくだりもあり、後から見た図録には「・・・私は天野に隠居したいと思っているくらいである」というフレーズが引用されている。

実はこのとき、この天野という土地は私の母が子供の頃に住んでいた土地に間違いないということに気付いたのである。

というのは、母の生前、「あまの」という夢のような古里の話を何度か聞かされた事があるのだが、ついに一度も連れて行かれることもなく、詳しい話を教えられることもなく終わってしまい、この地名を思い出すことも殆ど無いままに今日に至ってしまったのである。多少詳しいことも話されたかも知れないが、子供の時でもあり、覚えていないのだろう。ただ桃源郷のような、という便利な言葉を使ってもいいかもしれないが、少なくともある種、夢のような土地のイメージだったのである。しかし、それにしてもこのような由緒深く大きな、大社と呼ばれる神社があるという話は一切聞かされた記憶がないというのはどういう事だろうか。話はしたが、話す方も聞く方の私も、神社というものにそれ程関心がなかったので記憶に残らなかったのかも知れない。また、母の父親がキリスト教徒であったた事も関係しているのかも知れない。いずれにせよ、和歌山市や高野山には何度も訪れた事があるにも関わらず、この天野の里と丹生都比売神社という、今では世界遺産にもなっている土地や神社の事は今回の事をきっかけにネットで調べるまで、全く無知だったのである。

後日、図録の他に当然のようにインターネット検索とグーグルマップで調べたが、次のサイトにこの神社への参道の道順と写真が掲載されている。
JR和歌山線の妙寺という駅が出発点になっている。そういえば「みょうじ」という駅から行くのだという事は聞かされていたことを思い出した。

このウェブサイトの写真を見ると確かに、天野大社は壮麗とも言える程の神社であり、天野の里も、間違いなく高原に開けた美しい盆地のようだ。他に幾つもの史跡の紹介と写真もある。高野山にも縁が深い場所柄、こういう話はいくらもあって当然だが、西行の妻と娘がこの地で出家したということなども知るとやはり感慨は深い。少なくとも「西行」という、彼女の著書は買って読もうと思った。

という次第でなぜか自分の故郷を訪ねるような印象になってしまったが、勿論、今回の展示物の範囲は大阪と和歌山だけではない。京都、奈良、滋賀、と近畿地方全域に及んでいるが、特に滋賀県、すなわち近江の仏像について著者(今回の展示の場合、著者というほか無いだろう)の思い入れの深さが強調されていたのが印象にのこっている。確かにこの地域についてはかなり歴史的に重要であるわりには紹介されることが少ないだけに、私にとってもかなり興味深いというか、どことなく気になる、世界である。

展示物の印象については以上。

今回のこの展示は美術展としてはかなり異色である。「白州正子 神仏、自然への祈り」というタイトルの通り、白州正子の、といって良いのかどうか判らないが、神仏、自然への祈りというテーマであって展示物そのものではないという印象がある。この神仏、自然への祈り、というテーマは大きく重いテーマであると同時に今日的なテーマでもある。自然信仰というのは、この展覧会では特に日本人に特有の信仰心として取り上げられているが、日本とは違った形、あるいは問題を含んだ形で世界的な傾向でもある。これに関しては数年前、別のブログの記事 http://d.hatena.ne.jp/quarta/20071203#1196666713 で取り上げたのだけれども西欧の一部で「ポスト・キリスト教」と区分される宗教があり、そこではキリスト教の神がマザー・ネイチャーという女神に入れ替わっているという、米国の分子生物学者の著書がNYタイムズで紹介されていたのである。その後この件でその著書を読むとかそれ以上の詮索をしたわけではないが、気になるテーマであり、今回の、日本における自然宗教との比較という点でも興味深いテーマであると言える。

今回の著者やその周辺に関わる事を含め、この続きは別のブログに引き継いで、機会をみつけては考えたことなどを綴ってゆきたいと思う。たぶんブログ「意味の周辺」になるだろうと思う。

2010年5月9日日曜日

陶とガラス ― 陶器と磁器とガラス工芸

この展示会に行ったのは2月の25日で、もう2か月半近く前になる。

今回の展示会では陶器磁器のスペースが大半を占めていた。会期末期に行ったせいか?とも思ったが、最初からこうだったとのこと。

長らくガラス展を主としてを見てきたので、今回の土色の陶器が多数並べられた空間を見て懐かしいような気分もわいてきた。ひとつには以前、備前市に住んでいたことがあり、備前焼工房を見学した記憶を思い出したこともあった。

ご主人で作者の和田忠実氏に訊ねてみると、だいたい備前焼と同じ方法だが原料の土が違うとのこと。普通の釉薬が掛かっているように見えないが、備前焼よりは滑らかで親しみやすいところがある。

磁器はすべて白地に青の文様で、上述の陶器とこの種の磁器との2群からなっていた。

中に入って直ぐに眼に飛び込んできた急須があった。ちょうど急須を買いたいと思っていたときだったので、購入することにした。やはり急須は陶器か磁器で、ガラスはちょっとあり得ないだろう。皿もそうだ。料理を盛る皿はやはりガラスでは不向きのようだ。しかしかつて灰皿は圧倒的にガラスが多かった。

幾つかの急須がすべて同じ値段だったのでどれにするか迷ったのだが、結局下の急須にきまった。




これは和田氏に選んで貰った2点の中の1つである。もうひとつの方は残っていた他の急須に比べても一回り大きくかつ端正な形で色調も美しかったが、結局大きさを考えてこれにした。斜め上から見ると味わいの深い形をしている。急須は斜め上から見ることが多いのだ。

かれこれ2か月ほど使い続けているが、他の量産品ばかりの食器や道具や容器類に囲まれて確かにこれは光っている。使い勝手も、注ぎ口からしずくが垂れることもなく、すべての面で問題が無い。

ところで今回、改めて上に乗せた案内状の写真を見てみると、下側の磁器の急須が素晴らしいものに見えた。案内状を貰ったときはとくに気に留まることもなかったのだけれども、今改めて写真を眺めてみると本物の個性をそなえた美しい姿に見える。会場では見かけなかったが、早く売れたのであろう。もちろんお値段のランクも違ったであろうから購入できたとは思わないが。

ところで、急須はもちろん、料理皿などもガラスでは無理か難しいところがあるが、酒器、日本酒用酒器となると話は別だろう。西洋料理に合わせる場合は言うまでもなく、伝統的な杯や徳利までガラス製品が用いられる場合さえある。居酒屋などでも磁器が多いが、最近はガラス器の場合も多い。もちろん土色の陶器に無色透明な日本酒を盛るのも風情があるかも知れない。特に月明かりの下などではいいかもしれない ― そういう環境があれば・・・。


以上、この2月に訪れたガラスギャラリー報告でした。今はもう5月も半ばに。できれば余り期間をおかずにまた書きたいと思います。

2010年1月25日月曜日

届けられたガラス展案内状

少し前に頂いた案内状を貼り付けます。もっと早くすれば良かったのかも。





2009年9月23日水曜日

渋谷東急本店での二つの展覧会

この9月2日、案内を頂いたので、渋谷の東急本店にて平行して開催されていた日本クラフトデザイン協会・会員展「花咲くクラフト」と、日本ガラス工芸協会の「ガラスで遊ぶ茶の時間」の二つの展示会に行ってきました。両方合わせて非常に多くの作家が参加されていたうえ、こちらの方もしばらく工芸やガラス工芸について考える機会から遠ざかっていたこともあり、なにかまとまった印象を捉えることも難しかったのですが、とくに問題意識といったものにこだわらず、直接の印象を忘れてしまわないうちに、メモしておきたいと思います。

「花咲くクラフト」展のほうは場所の広さの割りに参加作家の人数が多く、かつ分野も多岐にわたっているためにやや雑然とした雰囲気もあり、作品展というよりも見本市といった印象を、受けてしまいました。これはデパート内という場所の関係もあるのでしょう。デパートの売り場の中にあるわけですから売り場とあまり変わらない印象になってしまっていたとも言えます。こういう点は、デパートという場所のデメリットかも知れませんね。デパートではやはり売り場との差別化というか、画然とした区別が欲しいように思います。その点、同じ店舗でも大型書店内の催し場などのほうが特に差別化に意を用いる必要もなく、有利かも知れないと思います。もちろんデパートのメリットも沢山あると思いますが。

ガラス作家の作品ももちろんありました。記憶にのこっているのは新島の火山岩を利用して淡いグリーンの色を出したという吹きガラスや新しい用途を開発した作品群などで、どちらかというと純粋な美というよりも、自然との関わりとか、生活との関わりとかを追求したと見られる行き方に思われました。これが「クラフトデザイン」の方向性なのでしょう。・・・あらためて思ったのですが、こういう行き方にはそれに適した分野というものがあるのではないかな、ということです。というのは、この会場で目立っていたのは染色などの織物関係の作品でした。あと、陶器です。もちろん材料的にどの分野でも色々な行き方があるべきだし、それぞれ独特の良さがあることも確かですが、一方で素材の可能性という面で、有利な、あるいはより表現意欲をみたせるような方向性があることも確かで、ガラス工芸家が一方で高級クリスタルガラスの質感を生かした高級品をめざし、また別の一方で彫刻的というか表現的な方向を目指し、日常生活や自然に溶け込んだ方向性に向かうことが少ないのも無理からぬことと思えてきます。

もっともこんなことはすでに幾度となく言われてきたことでもあると思いますが、それを意識させられたのはやはり、展示の仕方から来ていたことが大きいと言う印象です。多くの分野、あるいは方向性の作品群をひっくるめて展示するにはよほど考え抜かれた取り合わせと演出をしなければ、改めてことさら提示する必要もない問題点を浮かび上がらせることにもなるのではないかという印象です。もう一つ言えば、純粋な展示作品スペースとべつに販売に向けた展示スペースがありましたが、余り展示方法にはっきりとした違いが見られなかったことも気になるといえば気になります。


「花咲くクラフト」展をみてから、エスカレーターを一階分降りて「ガラスで遊ぶ茶の時間」の方に入場しました。こちらのほうも参加作家は多いものの、それでもガラスという単一の分野であるだけに、照明などを含め、ガラス作品に適した、というか、美術作品の展示らしい展示がなされていたようです。会場に入ったとたん、クリスタルガラスの質感、重量感、高級感が会場全体に充満していることが感じられました。

参加作家が多いだけに、全体をみると多彩な表現や傾向が楽しめる内容になっていたように思います。好みの作品を見つけて購入するにも、これだけ多彩であれば便利でしょう。茶器がテーマですが、酒器に使えるようなものもあったり・・・、実際に酒器も出品されていたのかも知れません。・・・ただこれだけ多くの作家が一同に会していると覚えておきたい作家の名前を忘れてしまいがち。

前回、新宿高島屋ギャラリーで見た作家の方々の作品もあり、そのなかの幾つかの作品群はそのことに気づきました。茶器であるだけに相応に小振りであったことは当然ですが。
前回、広沢さんの作品に陶磁器の感触を感じたことを書きましたが、今回、茶器であるだけに、なおさらそれが感じられました。当然ですが、陶器よりも磁器の感触です。不透明色のガラスで磁器における釉薬の感じが出ています。やはり、ガラスでも、単純であっても微妙な形の差異、色調を追求するには不透明にならざるを得ない事は確かなことのようです。・・・・・


最後に、今日たまたま、インターネットのBBCニュース科学欄で面白いガラス彫刻が紹介されていたので、リンクしておきます。ガラスで何と、もっとも危険な何種類かのウィルスの形をかたどったものだそうです。相当のインパクトのある作品が写真で楽しめます。BBCニュースの科学欄では時々、科学と関わりのある芸術作品が ― 大抵は写真ですが ― 紹介されることがあって楽しめます。

2009年7月20日月曜日

「現代ガラスの五重奏」 ― 新宿高島屋美術画廊 ― 7月18日訪問


現下の不景気を吹き飛ばすような勢いで、豪華でボリュームのある作品群が並んでいる。
五人、何れの作家の作品も物量、アイデア、技法、技量を惜しみなくつぎ込んだ、という印象だ。

入り口近くにある神田さんの作品群は、普通の吹きガラスに使われるような程度を超えて多色、多量の色ガラス、とくに不透明の色ガラスを豪快と言えるほどに使っている。
やはり形や色によるパターンの感覚などに日本の陶磁器の伝統が感じられる。といっても、それで瀬戸物臭いというか、陶磁器的感覚に引きずられているような感じがするわけでもない。

他の作風、作家の作品も色遣いや技法は異なるが、大振りで技術的にも豪勢な作品群であることは共通した傾向だ。小振りの実用的な作品も厚みがあって、豊かさを感じさせる。

オブジェもボリュームのある豪快な作品である。ガラスのオブジェといえば、表現主義的な作風のものが以前は多かったような気がするが、そういう傾向は見られず、純粋に美しいもの、夢のあるものを、という感じだ。しかし以前見たことのある ―― 最近は余り見る機会が無かったが ―― チェコなどのヨーロッパの作家のこの手の作品とは何処か違いがあるような気もするが、これは気のせいかも知れない。

全体的に豪華で量感満点の作品群の中にあって、今回の案内状を頂いた広沢さんの作品は、量感はそこそこながら、色調の安定した、クラシックで端正な器の全面にわたって銀箔の繊細な図柄を描いたもので時代を超えた安定感がある。銀箔の場合、技術的にも金箔とは違うだろうなという印象はあるが、造形がはっきりと出るような印象はある。面積のバランスが難しそうな感じがした。ほかに小振りの透明なグラス全面にに金箔の文様を施した実用の酒器にも使えそうなものもあって、これらはヨーロッパの伝統的な作品だったとしてもおかしくないような感じだ。また陶器のような地味で味のある色調を出した大皿などもあり、これなども陶磁器の伝統が入っていながら陶磁器的感覚に引きずられていないのはこの展示会の他の作家作品同様に好感がもてる。


時節柄、こういう豪華な工芸品を見てどうしても考えてしまうのは、この時期、ガラス工芸など、工芸家にとってどういう時期なのかなと言うことだ。というのも最近、日本が格差社会になってしまったということが特に政治や経済社会問題として強調されることが多いからである。高度な美術工芸品が栄えた時代というのは多くは過去の格差社会だった。考えようによっては、美術工芸にとって格差社会の到来は良い時代の到来という考え方もできないこともない。実際、詩人や芸術家や思想家、諸々の文化人などでもそういう格差社会の方が文化的で望ましいと考える人たちも多かったし、今もいると思う。
このようなことを本格的に考え始めるとこの場で収拾がつかなくなってしまうが、そういう面から出発して工芸美術を考えるのもそれなりに意義はあると思う。
日本の場合、この不況の真っ最中で格差社会が固定化されてしまったら、たまったものではないが、中国のように急激な経済発展のなかで格差社会を拡大している国もある。世界は色々だが、ただ、良くも悪くも科学万能主義、あるいは科学信仰ともいえる傾向は世界を通じて浸透している。過去と現在の宗教の問題、心と精神の問題も考えなければならない。


新宿高島屋10階美術画廊という場所はもちろん、一流の美術画廊であるから、そこに出品されるものは美術品として評価されるものであり、いくら工芸品であっても誰もが気軽に購入できるようなものではないのだが、それでもデパートの中にあり、間口も広く開放的で入りやすい。機会があればもっと気軽に入って目を楽しませてもらうべきだろう。格差社会であろうと無かろうと、少しでもその分、心が豊になる筈だし、ひいては景気上昇にもつながらないとも限らない。